Mag-log in「三浦様、突然のお電話を申し訳ありません」 電話をかけてきたのは、煌の秘書だった。 「社長が、この二日、ほとんど何も召し上がっていません。先ほど、会議中に倒れました」 「倒れた?」 「意識はあります。今は社内の医務室です」 糀はスマートフォンを強く握った。 婚約を隠していた煌が悪い。これだけ傷つけられたのだから、放っておけばいい。 そう思おうとしたのに、できなかった。 「すぐに行きます」 電話を切ると、玲奈が糀を見ていた。 「今の電話、誰から?」 「煌さんの秘書です。煌さんが倒れたそうです」 玲奈の顔色が変わった。すぐにバッグからスマートフォンを取り出し、画面を確認する。 「私には、何も来ていないわ」 もう一度画面を確かめた玲奈が、糀をにらんだ。 「私が婚約者よ。煌さんが倒れたなら、最初に私へ連絡するのが当然でしょう。どうして私ではなく、あなたなの?」 糀にも答えられなかった。けれど、秘書が頼ったのは、煌の婚約者ではなく糀だった。 「会わないと言ったばかりでしょう。行かせないわ」 「倒れた人を放ってはおけません」 「そうやって、また煌さんの気を引くつもり?」 「違います。私は料理人です。食べられない人を、放っておけません」 糀が扉へ向かうと、玲奈の声が背中を追ってきた。 「では、また勝負で。あなたの店が、それまで残っていればね」 「店は、潰させません」 糀は振り返らず、試食室を出た。 *** 店へ戻ると、味噌に漬けておいた鮭を焼いた。骨を丁寧に取り、ほぐした身を入れて、小さなおにぎりを握る。二日も食べていないなら、一度にたくさんは食べられない。 腹が立っている。まだ許していない。 それでも、煌に食べてほしかった。 医務室へ入ると、煌は白いベッドに腰掛け、スマートフォンで仕事の連絡を返していた。顔色は悪い。それでも糀を見ると、驚いたように立ち上がろうとした。 「寝ていてください」 「どうして、ここへ」 「何も食べていないと聞きました」 煌が秘書を見た。 「余計なことを」 「怒るなら、食べてからにしてください」 糀がおにぎりを差し出すと、煌は黙って受け取った。 一口食べたところで、煌の手が止まった。 「この具……」 「どうしました?」 煌は、おにぎりの中
「どうするの?」 玲奈は、糀が迷うことまで分かっていたように微笑んでいる。 煌を諦めれば、『澄乃』の名も祖母の資料も戻ってくる。 もう九条と争う必要もない。 それが一番いいのかもしれない。 「私は……」 糀は答えられず、うつむいた。 「迷うことなんてないでしょう。煌さんと二度と会わない。それだけで、あなたは欲しかったものを取り戻せるのよ」 玲奈は糀に考える隙を与えず、畳みかけた。 「煌さんだって、あなたがいなくなれば私のところへ戻る。すべて元どおりになるの」 本当に、そうなのだろうか。 糀は顔を上げた。 「その前に、一つ聞いてもいいですか」 「何?」 「玲奈さんも、煌さんのことが好きなんですか」 玲奈の笑みが止まった。 すぐに答えると思っていた。けれど、玲奈はわずかに目を見開き、糀から視線を逸らした。 「……私は、煌さんの婚約者よ」 「それは知っています」 「なら、聞く必要はないでしょう」 好きだとは言わなかった。 玲奈ほど美しく、家柄も立場も申し分のない人なのに、「好き」とは言わず、自分が婚約者だということしか言わなかった。 玲奈は、煌が好きなのだ。 けれど、煌も同じだとは思っていない。 それなら、自分は玲奈から煌を奪うことになるのだろうか。 修司と美咲にされたことを、今度は自分が玲奈にするのだろうか。 やはり、煌を諦めるべきなのかもしれない。 玲奈は家同士が認めた正式な婚約者だ。糀は離婚したばかりで、蒼太との関係も、三席の店も、ようやく取り戻し始めたところだった。 これ以上、難しい恋へ自分から踏み込む必要はない。 婚約を隠されていたことも、まだ許せなかった。この先、もう一度信じられるのかも分からない。 今ここで約束すれば、もう傷つかずに済む。 そう思った瞬間、煌が座っていた一席が浮かんだ。 《ちゃんと、何か食べましたか》 打ったのに送れなかった言葉まで思い出す。 会わなければ、忘れられるのだろうか。 煌が何を食べたのか、今どこにいるのか、もう気にせずにいられるのだろうか。 無理だった。 「……私も、煌さんが好きです」 玲奈の顔から、笑みが消えた。 「何を言っているの。私が婚約者なのよ」 「分かっています」 糀は、震えそうにな
翌日、営業を終えた糀は、煌がいつも座っていた席を見た。三席しかないのに、一席が空いているだけで店の中ががらんとして見える。 外で車の音がするたび、引き戸へ顔を向けてしまう。来るはずはない。来ないでほしいと言ったのは糀だ。 それでも、煌がいない店は寂しかった。 糀はスマートフォンを取り出し、煌との画面を開いた。 《ちゃんと、何か食べましたか》 そこまで打って、指が止まった。 心配だと伝えたら、煌はまた来るかもしれない。 それを期待する自分に気づき、文字を一つずつ消した。 *** その翌日、糀は一人で九条グランドホテルへ向かった。 招待状には、勝負の前に試作料理を確認できるとあった。相手の料理を知らずに条件を決めるつもりはなかった。 ロビーでも、糀は行き交う人の中に煌を探してしまった。 煌は来なかった。 来ないでほしいと告げたのは糀だ。隣に立たれれば、婚約のことを考えてしまう。 それなのに、本当は来てほしかった。 通されたのは、一般客の入れない試食室だった。 白い布をかけたテーブルの奥に、九条ホテルの総料理長、榊原征士郎が立っていた。六十歳近いが、白い調理着には皺一つなく、背筋も伸びている。 「三浦糀さんですね」 「はい」 榊原は糀へ頭を下げた。 「九条家が正当に取得した資料だと聞いています。出所に争いがあることは、昨日知りました」 「祖母の料理を受け継いだのは、美咲さんではありません」 「その点は、ホテルへ確認します」 言い訳も、美咲をかばう言葉もなかった。 「ただし、今日の料理は私が作りました。味については、私にお尋ねください」 運ばれてきたのは、黒毛和牛の炭火焼きだった。 熟成味噌が艶を帯び、肉を切ると中心に赤みが残っていた。 美咲の料理とは違う。 皿を置いた瞬間から、味噌、酒粕、焦がした葱の香りが順に届く。何十年も料理を作ってきた人の一皿だと分かった。 糀は一切れを口へ入れた。 「……おいしい」 和牛の脂がほどけ、そのあとから若い味噌の甘みが来る。最後に、発酵した魚のような深い旨みが残った。 祖母の澄乃返しに近い。 悔しかった。 同じではない。味噌の香りが強く、肉を飲み込んだあとも舌に残る。祖母は肉の味を先に出し、調味料は最後にわずかに残した
煌が引き戸へ向かった。 「待ってください」 帰ってほしいと言ったのは糀なのに、自分から呼び止めていた。 煌が振り返る。 「一つだけ、答えてください」 聞くのが怖かった。 それでも、曖昧なまま帰したくなかった。 「私とキスをした時も、玲奈さんが婚約者だと知っていたんですよね」 「はい」 短い答えだった。 「いつ、話すつもりだったんですか」 「婚約を解消してからです」 「それまで、私は何も知らないまま?」 煌は答えなかった。 「私が知らなければ、それでいいと思ったんですか」 「違います」 「何が違うんですか」 「話せば、あなたが私から離れると思いました」 煌の声は低く、わずかにかすれていた。 糀を見る目には、隠しきれない怖さがあった。 「だから、黙ってキスをしたんですか」 「はい」 糀の手が動いた。 乾いた音が、狭い店に響いた。 煌の顔が横を向く。打った手のひらが、じんじんと痛んだ。 人を叩いたことなどなかった。 けれど、謝ることはできなかった。 「私を、何だと思っているんですか」 「大切な人です」 「大切なら、どうして!」 声を上げた途端、涙があふれた。 「私は、知らないうちに夫を取られました。何も知らずに家族のごはんを作っていた自分まで、馬鹿みたいに思えて……」 涙で煌の顔がぼやけた。 「それを知っているのに、今度は私を、何も知らないまま誰かの婚約者とキスをする人にしたんです」 「すみません」 「どうして、そんなことを私にしたんですか」 「あなたを失いたくなかったからです」 煌は赤くなった頬を押さえず、糀を見ていた。 「知られれば拒まれる。それが怖くて、私が黙っていました」 「ずるいです」 「はい」 「卑怯です」 「分かっています」 嫌いになれたらよかった。 この人も修司と同じだったと思えたら、どれほど楽だっただろう。 けれど、できなかった。 店へ来てくれるのが嬉しかった。何を作れば喜んでくれるか考えた。最初の休日も、その先の約束も、楽しみにしていた。 いつの間にか、自分で思っていたより、ずっと好きになっていた。 「私、あなたのことを、こんなに好きになっていたのに」 声にした途端、涙が止まらなくなった。 「どうして、私が
糀は白い封筒を開いた。 普通の封筒よりひと回り大きい。真珠のように光る紙の縁を金箔が囲み、中央には九条グランドホテルの紋章を押した赤い封蝋。開いた内側には、深紅の布まで貼られていた。 中のカードも、指で曲げられないほど厚い。四隅には金の飾りが浮き上がり、《公開料理対決への御招待》の文字まで、盛り上がった金色で刷られている。 三席しかない店のカウンターで、招待状だけがぎらぎらと光っていた。料理の勝負に、どうしてここまで金を見せつける必要があるのだろう。 九条グランドホテルで行われる公開料理対決の招待状だった。 同じ黒毛和牛を使い、《澄乃返しを使った発酵和牛料理》を作る。九条ホテル側の料理人は、総料理長の榊原征士郎。開催日は二週間後。調理の様子から審査まで、公式チャンネルで生配信すると書かれている。 「私が断れば、どうするんですか」 「九条ホテルだけで予定どおり販売するわ」 玲奈は迷わず答えた。 「美咲さんが受け継ぎ、九条が完成させた本物の澄乃の味として」 「料理に勝った人が、祖母の名前を持てるわけではありません」 「でも世間は、勝った方を本物だと思うわ」 玲奈は糀を見下ろした。 「本当にあなたが後継者なら、逃げる必要はないでしょう。もっとも、勝つのは私だけれど」 「料理をするのは、あなたではありません」 玲奈の頬がわずかに引きつった。 「九条ホテルの料理が勝つのよ。私が勝つのと同じことだわ」 「私には同じだと思えません」 その時、店の引き戸が開いた。 煌が秘書と弁護士を連れて入ってくる。玲奈を見た瞬間、足を止めた。 「玲奈さん。なぜ、ここにいる」 「あなたの婚約者として、ご挨拶に来たの」 玲奈は楽しそうに答えた。 「あなたが何も話していなかったようだから」 煌の顔から表情が消えた。 糀は、本人を見た。 「玲奈さんが、あなたの婚約者だというのは本当ですか」 煌はすぐには答えなかった。 糀を見つめ、何かを言おうと唇を開く。それでも言葉は出ず、一度、口を閉じた。 「……はい」 もう、これ以上驚くことはないと思っていた。玲奈が婚約者だと名乗った時に、いちばん悪い答えは聞いたつもりだった。 けれど、煌の口から聞くのは、まるで違った。 指先から力が抜けた。糀はカウンターの縁をつ
玲奈は、糀をまっすぐ見た。 「私は、煌さんの婚約者よ」 婚約者。 糀は、何を言われたのか分からなかった。 『九条家の人です』 昨夜、玲奈との関係を尋ねた時、煌はそう答えた。嘘ではなかった。けれど、いちばん大事なことを隠していたのだ。 その意味が分かった瞬間、さっと血の気が引いた。 足に力が入らなくなり、糀はカウンターへ手をついた。 煌に料理を認めてもらい、キスをして、最初の休みに会う約束までした。そのどこにも、玲奈の話はなかった。 「正式な婚約です。両家の事業にも関わっているわ」 玲奈は糀の反応を確かめるように続けた。 「あなたとキスをした時も、あなたとの休日を丸一日空けた時も、煌さんは私の婚約者だった」 別の女性といた修司を知った時の痛みを思い出した。 今度は自分が、知らないうちに婚約者のいる男性とキスをしていた。 修司に裏切られた自分が、今度は別の女性を傷つける側になっていたのだろうか。 そう考えると、息が苦しくなった。 頬に触れた煌の親指も、「一日、糀さんを独占します」と言った声も、「宿泊で予約を取っても?」と尋ねた時の熱い目も思い出した。嬉しかった記憶のすべてに、知らなかった事実が重なっていく。 あの時、嬉しいと思った自分まで責められているようで、胸が痛んだ。 それでも、玲奈へ謝ることはできなかった。 糀は、婚約のことを何も知らされていなかった。 煌と玲奈がどんな約束をし、煌が何を考えていたのかは、本人に確かめなければ分からない。 「どうして黙っていたのか、気になるでしょう?」 「神楽坂さんとのことは、本人に聞きます」 糀はカウンターに手を置いた。 声を震わせたくなかった。 「九条ホテルの企画について話してください」 玲奈は少し不満そうな顔をした。泣いたり、言い訳をしたりする糀を期待していたのかもしれない。 「いいわ」 玲奈は鞄から透明な袋を取り出した。 中には、黄ばんだ一枚の紙が入っていた。見間違えるはずがない。祖母の字だった。 《若味噌六、古味噌四。和牛、四十八時間》 右下には、小さな墨の点が三つある。 祖母は、うまくいかなかった試作の頁に、墨の点を三つつけていた。 これは完成した作り方ではない。 玲奈は、それに気づいていないらしい。